昭和42年 12月28日 朝の御理解
今朝の御祈念にある方達のことを私お願いさしてもらいよったら、そしたらドライアイスということを頂いた。今日はそのドライアイスという内容、その言葉の持つ内容、検討してみたいと思います。ここんところお互いが分からして頂いたら、なるほどおかげが受けられんはずだなぁという事と、なるほどおかげをこの生き方で行きゃおかげを受けられるということが、はっきりするじゃないかと思います。
皆さんもご承知のようにドライアイスというのは、色々なものを冷やしたりする。あの大変触ったら火傷するように冷たいものですね大体。けれど私そういう意味ではなくて、ドライということとアイスということからご理解を頂いたんです。ドライということは割り切った考え方。反対にエレガントといったような言葉があります。古風な。
信心はこのドライな信心では、今日のご理解から頂くならまずおかげを受けられないということですね。信心がドライになったら。いわゆる割り切った考え方。こんくらいのことは人間じゃけんで、こんくらいのことは若者じゃけん、神様が認めてくださる。というようなその考え方なんです。年寄りもなけりゃ若い者もない。神様へ通うということは。おかげを受けるということ。
私はそのアイスということは、どういうふうな頂いたらよかろうかと思ったら、結局冷たい。というそのことだと私は思うとる。いわゆるその私どもがですね、割り切った考え方で信心をしておったんですはね、天地が冷とうなんなさる。天地が冷とうなんなさったらですね、いわゆるそこは不毛の地になる。
たとえば極寒。寒くなりますとそれこそ雑草ですらが芽を出さんじゃないですか。春の日差し、そして夏ともなると、もうあらゆるものがいっしょにに芽を出してくる。暖かくなるからです。天地が温もってきなさるからです。
極寒のおりにいわゆる雑草でも芽を出さないように、神様のおかげでいわばおかげが芽を出すというようなおかげを頂くためにはです、ドライな信心からいわゆる教祖の神様のご信心ていうか、そういうご信心に神習わして頂くところの信心。いわゆる実意丁寧神信心というものがです、それは古風に見えるかもしれません、けれども信心はです、いつの時代においても同じこと。どんなに世の中が変わってまいりましょうが、その根底に流れる天地との繋がりの頂けれる、そこの原理というものがこれはいつの時代でも同じである。
そこで私は教祖の神様はどのようなそのご信心態度もって、事々に接しあたられたか、感じられたか。たとえば金光大神に表れておる、金光大神の中にあります、教祖42歳の大患の時を思うてみると一番いいと思う。もう湯水も通らないというほどのご重態であった、そこで親戚身内の者が集まって、もう医者も薬も手を離しておりますから、もう神様におすがりするしかないというので、当時皆に拝んでおりました石槌の神様を、一心に込めて親戚中の方達が拝んでおられる。新谷の治郎という方が先達で御祈念をなさる。
その新家の治郎に神がかりがあった。この家の主人が病気をいたしておりますのは、豹尾金神に無礼があってのことだという厳しいお言葉であった。今でもですけれども、当時の俗信仰の方達から見たら、それこそ金神様という方は大変な神様であった。しかも豹尾金神と言えば一番恐い金神様。知って向かえば生命を取る。知らずに向こうても目を取るというほどしの、まぁいうなら悪神邪神ともみんなが慄いているようなその神様である。
家とか家の普請とか、結婚もいうに及ばず、もう種まきにいたるまで、この金神有効の説をもうみんなが信じていた時代である。今でもそうですからね。金神様を避けて通らないとだめとか、金神封じをしなければいけないとか、ということを申します。
小さな納屋を広げられる時に家相が悪いということ、聞かれましてね。そしてからその、こういう手立てをしたらええかと、大変面倒な手立てをされてから家を広げられました。その時に金神様にご無礼があったと言われるのです。
そこでその教祖の神様の奥様のお父さんにあたられます方、古川八百蔵さんでしたかね、古川八百蔵さんがその神がかりになっておられる新屋治郎さんに向かって、そのいわば口答えをしておられる。返答を。よそ者ならいざ知らずですけれども、この家の主人に限ってだけはもう絶対神様、いわゆる金神様にご無礼お粗末になるような事はしておりませんと。もうそれこそ日頃の教祖の実意丁寧な神信心をご承知ですから、金神様の祟りに触ると、祟り触りのないようにちゃんとその方法だけはして、このように譲ってある、この納屋を広げてあるとこういうのである。したらその一段とその神様が声を荒らげてそのおっしゃっておられます。それならこの家の主人が死んでも大事ないかと。
教祖の神様はそれこそ湯水の通らない、あの状態でお休みになっておられる時に、ま、なんとお父さんはお粗末ご無礼のことなんというその、まぁいうなら、大変なことを言われることであろうかと。いいえ、そうじゃございません。と心ん中にお詫びを心ん中に念じられたら、ようやくここから言葉が出てきた。ごそごそ這いながらご神前に出られて、その治郎さんに、神がかりになっておられる神様に向かってから、ただいま氏子の申しました事は、ひらにひらにお許しくだされ。見て建てたとはいいながら、方法はしたといいながら、人間凡夫のことで相分かりませず、どこにお粗末やら、ご無礼があるか分かりません。ただいま氏子の申しましたことは、どうぞひらにひらにお許しくださいと、こうもう、ひらにひらにお詫びをなさっておられます。いわゆるその、ここんところですよ。
見て建てたからそれで済んだとは思いません。人間生身のことでございますし、人間凡夫のことでございますから、どこにお粗末やご無礼があるか分からないと。することだけはしとりますから、そげなことはございません。という姑親のその言葉に対してです。ただいま氏子の申しました言葉はひらにひらにお許しくだされと、こういう態度なんです。もうこれだけのことをした、もうこれだけの信心しとるから、こんくらいの事はといったものじゃないのです。そこんところが私はお道の信心をさして頂く者はです。そういう信心態度というものが、だんだん身についてこなくてはだめだと。凡夫のことでございますから、どこにお粗末ご無礼かわかりません。どうぞひらにひらに、お粗末ご無礼のことをお許しくだされというてお詫びをされる。ならそこんところを自分の罪状という、罪状と、自分の罪と。まぁ罪というものを認められたのです教祖の神様は。
姑親の古川八百蔵さんはここの主人に限ってそげなことはなかっと、断言しておられるけどもただいま氏子の申しました事は、間違いでございますと。ただ人間凡夫の言うたりしたりしたことでございますから、どこにお粗末があるとも限らんのです。小さい家を四方に広げたことでございますから、どこに金神様にご無礼になっておるか分かりません。そこんところは凡夫のことでございますから、相分かりもせずなんともお許しをくだされと言うて、お詫びをしておられる。お前はなら自分の罪状を認めたから、本当はお前にはこんな罰を与えるとは、神様仰っておられないのですよ。この家の主人は行き届いておるとおっしゃる。神様は。
詫びて詫びて詫び抜かれるところにです、この家の主人は行き届いておる五月の一日に験をやると。いわゆるしりしをみせると仰った。五月の五日の端午の節句には床上げができて。しょうぶ風呂も入られたというところが、御伝記ににも残っております。さしもの大病もです。その教祖の神様の本当にもう無類の限りない実意丁寧の姿に対してです、お心に対して、お前はご無礼はご無礼と分かったんだなと、それはご無礼に対するところの罰を、これから受けないけんぞとは仰っておられずに、この家の主人は行き届いておる、五月の一日には験をやる、しるしを見せるぞと仰っておられる。
ここんところにあの、だんだん天地の親神様のご信心の拝んでおられる対象がですね、石槌の神様であるけれども、教祖の信心の心に現れて見える神様は、もうだいぶ天地の親神様のご性格を見せておられる感じですね。知って向かえば生命を取る、知らずに向かえば眼を取るというような神様ではなくて、氏子がひらにひらにというてお詫びをすれば、詫びれば許してやりたいのが親心という、その親心を見せておられる感じでございますね。
もう一つも割り切ってござらんのです。もう人間じゃからあなた、こん位のことはしようありますめえもん、というもんじゃないという事。凡夫のみでございますから、相分かりもせずどこにお粗末やらご無礼が、それをもう徹底してそこんところを、ご信心になっておりながらそれである。いわゆる一つも今の言葉で言うなら、ドライではおありにならなかった。そこにアイスではなく、冷たいのではなく、氷のようなものではなくてです。温かい温かい親心の一面を覗かしておられるという感じですね。
そこからだんだん,七墓築かせてくれるような大変なことが起こってくるわけですけれども、それでも金神様に対してです、どうぞ命を取ったり目を取ったりされるほどしの、あらたかな力を持っておる神様でございますから、それこそ氏子のことで凡夫のことで相分からず、だから神様あなたが、そこがいけんあそこがいけんと仰るなら、改まりますと。磨きもします、どうぞお向きを変えてくだされ、お向きをかえてくだされという、態度で金神様に向かってそういう態度で、この接しておいでられる。そしてこの、怖い恐ろしいと言うておる金神様が、完全に向きを変えられた時には、もう天地金乃神という、それこそ慈がん溢れるばかりの神様に変貌しておられます、変わっておられます。そこから金光教が生まれるわけなんです。ですからここのところをですね、お互いが一つ本気で私どもは、神習わして頂かなければいかんのですよ。
実意丁寧の限りを尽くさしてもらう。いわゆる割り切った考え方、たとえば今日たったそれだけのことが、私がある方達のことをお願いさして頂いておったら、ドライアイスということを頂いた。ドライということは、割り切った考え方では天地が冷え切ってしまわれるということ。そこにはどんなにはどんなに素晴らしい良い種を蒔いても、もう芽さえ生えず、雑草のみすら出せないような道理と同じ事である。だからドライではいかん、割り切った信心ではいかん、どこまでもです。
それでもやっぱ生身を持っておりますからできないこともある。凡夫のことでございますから、どこにお粗末ご無礼があるやら分からん。そこんところをだから、詫びて詫びて詫びぬかせて頂くという、その姿勢が大事だということも。そこでお詫びのしるしの信心というのが、なされなければいけないのです。
どうも私ここんところをですね、本当にこの私はその現代の金光教とでも申しましょうかね。そのあまりにも道理にあったですかね、あまりにも人間的な、割り切った信心が、いつのまにかそれこそ雑草の芽も出らんような、ごひれいが地に落ちてしまうような、結果を招いておるんじゃなかろうかと思うのです。
これは私いつも北野の共励会の時に思うんでございますけれどもです、久富先生が必ずもうおいでられます。もう晩の12時頃、また2里あまりの道を帰ってみられます。ご自分のお家はもう中村さんとこいつもありますが、ほんのすぐ近所であると。ですからこちらから夕方から出かけられて、あちらで共励の御用をすもうさして頂いて、そして明日の朝また参って来た時に、お届けをすればいいのですけれども、やっぱり帰ってきなさる。12時頃から帰ってきなさるです。もうこれは絶対帰ってみえるんです。
ちょっとこげな馬鹿げた話ないでしょうが、もう今晩は先生ご無礼してから、中村さんのところを終わらして頂きましたら、もう帰らして頂いてもうて、あくる日またお届けしますからでもいいのでしょうが、それでもかえって人情使いますと、もう久富先生そげんしなさんでよかよって、あたしの方が言いたい気がするんですけれども、そこが信心だと私が思うのですよ。まだ私はそういう流儀でおかげを受けてきておりますもん。
たとえば久留米あたり共励会に参りますでしょう、私ども青年会の人と、自転車で参りましてから帰ってくる。善道寺の横を通って来るわけです。他の方たちはみんな、先生ここでご無礼しますと言うてから、もうこちらに帰られる。あれだけ入りこまなんから、善道寺。けれども私は必ず入りこんでいって、お礼お届けをさして頂いてからでしか帰ってこなかった。日に必ず朝と晩に必ずお参りさせて頂きます。
たとえばその晩なら晩に、私は友達が亡くなりましてから、御通夜をしましたけれど夜中になった。それは矢作ですから、私ども椛目の前を通って行かなならん。だからもう、そりゃけれども、やっぱり夜のご祈念にお参りしとらんから、やはりお詫びのしるしに善導寺までお参りさして頂いて帰ってくる。またひっくり返して来てから、休ましてもらうと。そしてまた、朝の五時の御祈念にお参りをする。だからそれをですね、なるほどそぎゃんまでせんでもということですけれどもです、私は教祖の神様の信心はそこの辺が大事になさらなければいけないように思うのです。
お互いおかげを受けたいのでございますから、それこそ天地がですね、それこそ春の日差しを受けた受けて、この一切のものが芽を出る芽を出すようなおかげを頂くためにはです、神様の心を豊かに温かくするのは、私ども氏子なんです。冷たくするのも温かくするのも、私どもの心次第なんです。
昨日、久留米の笠さんが二,三日お参りがなかった。もうそれはそれはとにかく、3時間か4時間しか毎日休まさらなん、朝からもう晩まで。どっと車検が日に何台来て、福岡まで通われることがある。今日はまたご無礼して、今日もまたご無礼してと。ですから年末のことではありますし、たくさんの自動車の修繕をなさって、しかも車検までとってやるという御用をなさっておられますから、こういう忙しい中であるからお参りせんでも、神様がご承知だから家業の行を、しっかり行としてなさして頂きよるんだから。それどもいいわけですよね。それでもいいわけなん。
ところがそこが笠さんの信心ですね。三日ご無礼なさった。そりゃ昨日は御神酒を持っていつもです、先生お詫びのしるしにお供えしてくださいと、お詫びをしてくださいなんです。もう本当に三日もご無礼をいたしておりますのに、神様は私に付きっきりのようにして、私におかげをくださいます。車検の日に何回も行くような時ですね、その忙しいのに、もうお願いをしてまいりますとですね、本当そのシグナルが青青で、いわゆる通れるわけなんです。もう私はこれは一回や二回のことじゃないんですけれども、こういうご無礼の中にあっても、神様がこういうご守護、こういうおかげをくださっておるなと実感するから、もうありがたいと感じられるわけでしょうけれども。
先日もそんな調子で参りましたら、笠さんの車で今日はここまで。だから、あそこで一つ赤いシグナルが出てです、ちょっと何分間か待っとったらです。もう中に他に業者が入ってまた明日いっぺん出直さなならんような結果に、福岡久留米間をですよ。この人達の中にせねばならんような結果になるにございますけれども、こうしたご無礼を三日も続けておるのにも関わらず、神様はこのようなおかげをくださりますというて、昨日お礼言われた通りに三日間のお詫びをなさっておられます。
ただご無礼してすいませんじゃないです。三日間のご無礼をその三日間のご無礼をです、お詫びのしるしに御供えの一つでもさして頂いて、神様の心を豊かに温かくなさるこれは一つの手立てなんです、言うなら。私、このへんがですね、あの教祖の信心を真似せないかんところだと思いますね。2、3日ご無礼してすいませんじゃないんですね。そのお詫びのしるしにという信心がでけておるのです。その時に分かってきたというのはそのへんのことなんです。それはその人その人の信心の程度に応じることでございますけれどもです、私もその一つのことにおいてでも、割り切った考え方、神様こんくらいのことは堪えてくださるだろう。悪いことしながらでもそれを割り切った考え方。
なるほどそれで、罰を当てなさるようなことはなかろうけれども、いよいよ天地が冷え切っていく。いわゆるアイス。氷のように天地が冷え切っていく。神様の心がいわゆるおかげをくださろうとしても、くださることのできないことにしてしまうわけなんですよ。そこんところだけを一つ私が覚えて帰るというか、そのことに思いこまして頂く。ドライアイス。その頂きましたドライアイスということをです、私が理解付けてまいりますと、今日皆さんに聞いて頂いたみたいなことになるのです。そこんところを教祖の神様は決して割り切った考え方ではない。
どこまでも凡夫のことで相分からず、もうこれだけのことつい人間としての、なさねばならないことだけはついっぱいなさっておられながらもです、どこにお粗末御無礼があるのか分からんというところに、お詫びの姿勢をもって神様にお詫びし抜いておられる。そこには神様がこの家の主人は行き届いておるという、しかも五月の一日には験をやる、とおっしゃるようなその現れ方に神様がなっておられる。そこに、いわゆるおかげのしるしが頂けれる状態がそこから生まれてくるのです。
そういう信心態度の中から、金光様の信心はどこまでもそういう在り方、教祖の神様の御在られ方っていうのがそうだから、私どももそこんところできるだけの、実意をつくさして頂いて、そういう在り方に神習わせて頂くところからです、私は天地の中から限りなく生まれてくるところのおかげ。いわゆるもう本当に春の日差しを受けて、あらゆるものがこの芽を出したり、花を咲かしたり、実を実らしたりする働きが、温かいうちにそういう働きが始まるように、天地が冷え切ってしまったら何にもできません。どんな種を蒔いてもできん。芽さえ出きりません。そこに道理を分からしてもろうてですね、一ついよいよ行き届いた信心をさしてもらい。
あれの信心は古風だと。今時あんな古風な信心は流行らんとということはお道の信心においてはないと。いよいよ古風なそれこそ百何年前に、教祖の神様がお辿りになられたような道をです、私ども辿らして頂いてはじめて、生神金光大神お取次ぎの道というのが、いわゆる百何年前を今の時代に移すことのできるような、ごひれいもおかげもお徳も受けられると私は思うんですよ。どうぞ、そこんところを皆さんもういっぺん皆さんの信心で、ドライアイスということをひとつ考えて頂きたいと思うんですね。